シンエヴァと物語の収束地点-書き殴り-
〜ネタバレ含む〜
ちょっと前にシンエヴァを見に行った。
年代的にエヴァンゲリオンはリアタイ勢ではないし、金曜ロードショーをなんとなく敬遠して来たので、エヴァをしっかり見たのは高校を卒業した後だった。Netflixにあるから、そろそろ見よっかなって感じで。
感想としては「厨二病だ、、、!」。ストーリーが難しい、謎の美少女、彩度が高くてデカいロボット、陰鬱な雰囲気、セカイ系の物語、ちょっとのエッチさ。少年時代に見ていたら危険だなという内容だなと思った。
エヴァの重要なテーマとして「少年が大人になる」がある。
知る通り、シンエヴァ公開(エヴァシリーズ完結)までにかなりタイムラグがあった。エヴァQからシンエヴァが公開されるまでに6年近く空いているし、エヴァシリーズ(新世紀エヴァンゲリオンのアニメ)が始まったのは20年前の話だ。
無論、当時厨二病真っ盛りだった人も、40近い事になる。
この完結までのタイムラグが「少年が大人になる」がテーマにあるエヴァンゲリオンという作品に説得力と、重みを与えているなと考える。狙ったかは知らんけど。
シンエヴァの着地点を先に言っとくと、何やかんやあって悩みも晴れて日常に戻っていくって感じです。
厨二病の出発点って「日常の退屈さ」であったりすると思っていて。それが自分に特別なパワーが宿っていたりする妄想で紛らわせてみたり。
リアルタイムでエヴァ視聴、厨二病だった人が数十年の時を経て、完結する物語が「日常に戻っていく」ってヤバくない?
厨二病の自分が持っていた力は嘘だったかも知れないけど、エヴァンゲリオンという作品のシンジ君が持っていた力は間違いなく本物だった。その「本物」のシンジ君ですら、自分と同じように日常に戻っていく。
これは、厨二病を拗らせちゃった当方にかなりのダメージでした。
今でも、自分はエヴァンゲリオンに乗れるんだと心の何処かで思っているのを否定できないのに、エヴァンゲリオンに本当に乗れるシンジ君が「普通の」日常に帰っていくので。フィクションの収束地点が現実で、現実の収束地点が現実じゃない訳ないじゃん、しんど。的な
エヴァンゲリオンという作品はめちゃくちゃ世界が荒廃しているんですが、
今作では農村とそこに普通に生きる人々の日常が描かれていました。
終わった世界でも「普通」の日常がそこにあって、終わる前と同じような生活を営んで幸せを享受しているっていう。
委員長の「今が一番幸せ(要約)」って言葉が、幸せじゃない現実から離れて空想、未来に夢を見る厨二病にはしんどいなぁと。
「厨二病」の為のコンテンツだったエヴァンゲリオンも結局は現実肯定派なんだ、、、とガッカリしたというか、現実を突きつけられた感じ。
逆に一番共感出来たのがシンジ君のパパ、ゲンドウの言動。もとい、思想。
ストーリーの中でも難しい話になるので、大体「どこまでも厨二病で、それを実現しようとした」という説明をしておきます。
映画館で前述の「現実」のシーンばっかり流れてゲッソリしてる時に、救われました。
独善的で理想が高くて、それでもそれを実行しようとする、共感を越えて「かっこいいな、、、」とさえ思いました(くそ陰キャ君きもwとも思った)。
まとまりないですがこんな感じで、現実と理想、現実と虚構について(アニメというフィクションと現実)迫るメタ的な作品になっていましたシンエヴァ。宇多田ヒカルの歌声が聴こえると「現実ッ!?!?!?」って思っちゃって凄い怖くなるという病に罹患してしまいました。
かなりこういう部分で刺さる人多かったんじゃないかな。
「少年よ神話になれ」というワンフレーズが我々厨二病の背中を押してくれる気がします。リアル。あざした
追記
親子の物語の側面もあるんですけど、そこら辺の感覚が鈍いというか、その次元まで精神を持っていけてないので終始よく分かんねえなって思いながら見てました(寝てました)。